西リーグ会長杯ジュニア大会(ちびっ子大会)優勝!
1999年度
99年当時、ジュニアの監督をしていた石田秀朗と申します。ちびっこ大会の優勝についての原稿依頼を頂きましたのでお送りいたします。
私が監督をしていた当時、箕谷野球部はリークでも最弱、同じ校区の北町松ヶ枝(現・桂木)は全神戸で優勝するくらいの強豪であり、私達は箕谷野球部なら弱いので試合に出られるといった入部動機のチームでした。監督も私のような野球素人で、要はちゃんと出席できる人にお願いするという状態でした。A・Jr合わせて30人もいないチームで、なんせ試合当日に9人揃うかどうかヒヤヒヤしながら朝を迎えることもしばしばありました。
さて、こんなチームが、4年生になってリーグの春季大会で準優勝し、初めて小さな楯と表彰状をもらって新学年が始まったばかりなのにもうすでにみんな満足という雰囲気の中、リーグ代表2チームがちびっこ大会に出場することになりました。対外試合など経験がないので、もうそれだけで私達は浮かれていました。当時のチームは、私は監督でしたが実際は常徳先生という立派な指導者が事実上の監督で、先生のご指導のとおりチームを運営していました。
先生は、ピッチャーを一番手に遠藤君、二番手に私の息子、そしてキャッチャーに仲邑君でバッテリーを組まれていました。ところが、このちびっこ大会全4試合、この3人が揃うことはとうとうありませんでした。1回戦は私の息子がおたふくかぜ、2回戦は仲邑君がアキレス腱を痛め、準決勝・決勝はエースの遠藤君が肺炎という状況でした。また、外野手は3年生が中心でした。しかし、私達のチームを見てジュニアの試合はピッチャーのコントロールとミスのない守備がポイントかなと思わせる大会でした。私達のチームはまさに打つチームでも走るチームでもなく守りに強いチームだったと思います。球は速くなくても四球をほとんど出さないし、エラーをほとんどしない手堅いチームだったと思います。結局は相手の四球とエラーを誘い、勝ち進んでいきました。
2回戦の南五葉第二戦は相手もなかなかの守りのチームで結局1対1の引き分けで、初めて抽選という経験もしました。ホントにヒヤヒヤしました。なんと5対4で準決勝に進出できましたが、思わずガッツポーズして叫んだのを覚えています。どっちか大人でどっちが子供かわからない状態でした。準決勝は4対0で序盤リードされていました。常徳先生がAチームの試合にいらっしゃったので、私の采配で試合を進めていました。先生が3回か4回のころやっと試合にお見えになり、結局コールドで勝利しました。私が形式だけの不甲斐ない監督かお分かりいただけたと思います。
先ほども書き記しましたが、この日はエース不在で私の息子が2連投することになったのと、決勝の相手が強豪花谷だったので準優勝はゲットできたんだからいいやと親達と試合が始まる前から言い聞かせていたことが思い出されます。実際、試合が始まるとポカポカ打たれ、4対0のビハインドでした。
ところが、ラスト2回で同点に追いつき、延長戦で北中君の高いバウンドのセンター前ヒットでサヨナラ勝ちとなりました。いやいやミラクルが起こりました。私達は西神戸の役員の方に「ジュニアの大会では予選があって参加チームが一番多い神戸で一番大きな大会(確かめていませんが…)」と聞かされていたので夢のような気分でした。
この優勝で自信を得たのか、秋の5年生のための第2回全神戸B大会でもドラマがありました。当時箕谷野球部は5年生が奥田君一人でした。ということで、彼とジュニア全員(といっても4年とちびっこ大会同様外野は3年)で出場することになりました。そして、5年生たった一人のチームが準優勝することができました。その後、このチームはAチームとして北須磨大会準優勝、新緑大会準優勝、天王ダム杯3位と対外試合で結果を残せるチームに成長しました。結局、唯一の対外試合優勝は一番最初のちびっこ大会優勝ということになりますが…。
その後の箕谷野球部の輝かしい栄光から見ると見劣りするかもしれませんが、納会で優勝旗や準優勝旗が並ぶというのは夢のようでとても誇らしく思ったのが懐かしく思えます。
ところで、このちびっこ大会という呼称ですが、甲北リーグ内では聞かれたのですが、西神戸連盟の方はそうはおっしゃってなかったような気がします。「西神戸会長杯ジュニアの部」が正式名称ではなかったのかなと思います。しかし、その後もわがチームではちびっこ大会と言われているようですね。